猫の目から
我輩は猫である。名前はまだ無いが、諸事情があり、「猫」という不名誉 きわまりない名前で、テキスト学園初等部の生徒をやっている。 先日我輩は、冬夜に頼まれたプリントを提出しに、初等部から近い医療棟と いうところへ行ってきた。医療棟というのは、寮住まいが多い生徒達のため にある、病院と保健室を兼ねたような施設である。すり傷から盲腸の手術まで 面倒を見てくれる、何とも便利で親切なところだ。薬品の匂いさえしなけれ ば、ここは日差しもいいし、お昼寝場所には最適だろう。いかんせん、猫で ある我輩には、ここの薬品の匂いはきつすぎるのだが。 『いいかい、猫。宇佐教授に渡すんだよ? フォーっていう人に渡すんだよ?』 冬夜の説明ではいまいち分からないので、我輩は受付のお姉さんに「宇佐教授」 とやらの居場所を尋ねた。そのお姉さんは、すぐに教えてくれたのだが、すご く曖昧な笑顔だった。そして、「もうちょっと後にした方がいいかも」とまで 言った。我輩は、頼まれてプリントを渡すだけなのに、「お菓子をあげるから」 とか、「テレビもあるわよ」とか、なぜそんなにひきとめられねばならないの だろうか。全く分からなかった。もちろんお菓子はひかれたが、この薬品の 匂いからは早く逃れたい。我輩は、ちょっと迷った末に、「けっこうなのだ」 と言って、宇佐教授の部屋に向かうことにした。宇佐教授の部屋は、2階東側 の右端の部屋らしい。 階段をのぼり部屋の前まで行くと、右端の部屋だけ妙な空気をかもしだして いることが分かった。何というか、うまく口では説明できないのだが…何か、 この部屋だけまがまがしい。プレートがかかっていないので分からない が、本当にここが宇佐教授の部屋なのだろうか。ノックしようかどうしよう か、少しドアの前で迷っていると、ドアの中から「フォー!」という声が 聞こえてきた。間違いないようだ。 我輩がノックするために深呼吸すると、中からドタバタする音が聞こえた。 「せ、先生…、何するんですか? いきなり尻を出しなさいって…!」 「フォー。困った子ですね。原宿君が注射は嫌だと言うから、他の方法で熱を  ひかせようとしているんじゃないですか。さぁ大人しく尻を出して、うつ  ぶせになりなさい」 この会話で、我輩はノックをする勇気を失ってしまった。 我輩は猫だが、人間世界に「座薬」という尻の穴からいれる薬があるのは、 知っている。だが、治療のために他人の尻に薬をいれる、という行為は、果 たして楽しい行為なのだろうか。文章で書くならば、先ほどの宇佐教授のセリ フ文末には、全て「♪」とか「☆」とかがついていそうなぐらい、声がはずん でいた。 しばらく動くことができないでいると、どうやら「原宿」という人間は、宇佐 教授に押さえつけられたらしく、ドタバタという音がやんだ。 「あ…や、冷たいのが…!」 「フォー。変な声をたてるんじゃありません。ほら、もう全部入りましたから。  それとも、もう一ついれておきましょうか?」 我輩は、ドアの隙間にそっと、プリントをはさむと、脱兎のごとくで逃げた。 「危険には近づくな」、という猫の本能に従ったのである。 受付の前を通ると、「何か変なもの、見ちゃった?」と、先ほどのお姉さんが 声をかけてきたが、無視をした。 我輩は猫だからよく分からないのだが、こういった状況だったにも関わらず、 「宇佐教授に『渡して』と頼んだのに、ドアにはさんで置いてくるなんて!」 と、我輩におしおきをする冬夜は、何か間違っているのではないだろうか。
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