日課
 社会科準備室の扉を開けると、そこにはいつも通り先生が座っていた。  部屋には資料が山と積まれていて、ここにいる時に地震が起きたらまず助からない だろうな、と来る度に思う。僕の先生はそういう事には頓着しないみたいだけど。  先生はすべりの悪い戸を開ける音に気付くと、僕の方を振り向いた。 「あ、いがらしくん。待ってたよ。今日もよろー」  一風変わった挨拶が口癖の僕の先生は三国志が好きで、三国志の話をするのはもっ と好きで、それで僕が来るととても嬉しそうに笑う。僕は三国志も、三国志のまだ知 らないエピソードや解釈を聞くのも、楽しそうに三国志の話をする人を見るのも好きだ。  つまりこれらの点に於いて僕と先生の利害は一致している、と言える、だろう。たぶん。  先生は椅子の向きを僕のほうに変えながら、何故か犬について熱く語りだしている。 ……捨て犬視点で話しているのが少し気になるけど。  犬の話が一段落ついたところで(最初の雑談は噺のマクラみたいなものなのだ。 マクラにしては随分贅沢な時が多いけど)、僕は昨日の続きを催促した。 「ニセクロ先生、呂布討伐の続き」 「あー、そうそう、夏侯惇将軍がね……」  僕がこんな風に放課後の準備室を訪ねるようになってから、半年が経つ。  初めて会った時、中等部の名札をつけた僕に先生は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、 すぐにどんな質問かな、と言って椅子を勧めてくれた。レンズの大きな眼鏡をかけて、 ゆったりしたサイズの白衣(これは先生の体型のせいだ)を羽織っていたから、高等部の ニセクロ先生だというのはすぐに分かった。宮本先輩が以前誉めていた。曰く、授業は わかりやすいし、のんびりしてるくせに終わる時間はきっちり守るいい先生だよ、と。 たしか世界史の担当だ。  本当は友達との賭けに負けた罰ゲームで高等部の校舎を一周していただけだったの で、苦し紛れに「三国志とか、好きなんですけど」と言うと、先生はとても、とっても 嬉しそうな顔をした。正史はまだ読んだことがないと言うと、ちくま学芸文庫版の正史 八冊を僕の膝の上に積み上げた。そうして、探偵になったつもりで読んでごらん、と ニヤリと笑う。  その時僕は何故だかとても驚いていた。麻草先輩風にいうなら、「イーッて」なって いたのかもしれない。あんまり驚いたせいか、その晩滅多に出ない熱が出た。ストーブ のない真冬の準備室で、コートも羽織らずに門限ぎりぎりまで話し込んでいたせいもある だろうけど。  それから僕は毎日ここに通っている。  学校のある日は、だけど。 「先生、すごいですよね」  将軍が射られた自分の目玉をえぐって食べた話は前から知っていたけれど、先生が 話すと初めて知るエピソードみたいにぐんぐん惹き込まれてしまう。  ニセクロ先生はそんなに大声を出すタイプじゃない。だから声だけ聞いているとと ても淡白な印象を受ける。語り口が特徴的で、長い話でもちっとも退屈させない。 一方的に話すんじゃなくて、相手からのレスポンスを得ながら理解度をはかりつつ先に 進めていく感じだ。僕もそういう話し方ができたらな、と思う。  コーヒーの入った熱いマグカップを僕に手渡しながら、先生は目で僕に訊き返して 続きを促した。 「だって、準備も何もなしなんでしょう。いつも」 「あはは、違いますよ」 「準備してくれてるんですか」  もしそうなら、嬉しいより先に申し訳ない。授業の準備もあるのに。  先生は自分の分のカップを机の上の僅かなスペースに慎重に置くと、また少し笑った。 「準備はしてますよ。毎晩、寝る前にいがらしくんの事を思い出しながら」 「……え」 「今日は夏侯惇将軍の話をしたから、明日は横山三国志の兀突骨大王でモテモテ!  とか。それとも将軍は自分の目玉だからまあいいとして、劉安はいかがなものか聞いて みよっかなー、とか」  耳が熱い。なんだか物凄く熱い。今ならマグカップより熱い。 「あ、ゲテモノ食い系の話ばかりだなー。 ……まあそんな風に目星つけて、昼休みに 資料読み返したりしてますよ。読み返しながら次の話のネタを考えたり」  先生がまっすぐに僕を見た。  眼鏡の奥の黒目がちな目に、僕の顔がうつっている。  まいばん、ねるまえに。  ぼくのことを。  僕は、僕は、僕も。 「せ、先生! 」  僕は椅子から立ち上がった勢いで怒鳴りつけるように告げた。 「好きです、僕」  めちゃめちゃベタな展開だ。  先生はぽかんとしている。  グラウンドの方から、野球部が練習している音が聞こえる。  カキーン。  これじゃあかほり級の王道路線だ。いやむしろあだち充の劣化コピーだ。天気まで お約束の満艦飾日和。狙ったわけでもないのにやりすぎだ。猛烈に恥ずかしくなっ た。逃げ出したい。だって次に来る言葉だって僕には分かってるんだから。 「じゃー、オレと同じだー」  先生は初めて会った時と同じように微笑んだ。  もちろん先生が好きだと言ったのは僕じゃなくて三国志で、そのあとクッキーまで 頂いてから一人で大人しく寮に帰った。捨て犬みたいにとぼとぼとした足取りになっ たけど、「お約束」だからわざとそう歩いたんだ。落ち込んでなんかない。ないとも さ、ちっとも。ないって言ってんだろバキャ。  多少ショックな事があっても、人の日課というものはそんなに簡単に変わらない。  次の日いつもの準備室の前に立って、扉に手を掛ける前にふっと寝る前の先生を想 像した。  パジャマを着て、布団に潜って、天井をぼんやり眺めながら僕のことを思い出して いる先生。  萌えだ。  思わずにやけた顔をひきしめてから、すべりの悪いドアを開けた。先生はいつも通 り振り返って、いつもと同じ挨拶をする。  僕の名前を頭につけて。  
ブラウザの「戻る」で戻ってください