レトルト
1月1日。 原宿が風邪を引いた。 と、竹田が知らされたのは朝七時、本人からの直々の御電話によってだった。 寝起きでひどく不機嫌な竹田に、熱が出て動けん。宮本は帰省しちまってるから 看病にきやがれ、と息苦しそうな鼻声が携帯で告げた。 嫌だという間もなく切られたので腹が立った。 携帯の着信履歴を見ながら誰が行くかボケ。と呟くともう一度寝なおそうと布団を もぞもぞかぶりなおした。 - 意外と自分はいい奴だったんだ、と竹田は思う。 コンビニで風邪薬と、ヨーグルトだのおかゆだのの食べやすそうなものを買い揃 えた上で原宿の部屋の前に着いたのは、まだ八時を回って間もない頃だった。 白く殺風景な扉をこんこん、と軽く叩く。 「はーらじゅーくくーん。生きてますかー」 「…死んでる。」 扉のむこうからくぐもった声が聞こえてきた。 これは密室殺人だ、とか馬鹿なことを言いながら竹田は扉を開けた。 丁度竹田の部屋とは対称な作りになった部屋の片隅に、原宿はぐちゃりと転がって いた。 病人特有の汗の匂いが鼻を掠める。小さく眉根を寄せた。 「…大丈夫か?」 「ちっとも全然大丈夫じゃねえよ。見りゃわかるだろ」 スニーカーから足を引っこ抜きながら聞くと、ぐちゃぐちゃの布団のむこうから鼻 声で答えが返ってきた。 これは本当に辛いのかもしれない、とこっそり思ったが、とりあえずそうは言わな いことにした。 「ついてないねえ。正月に風邪引くなんて」 「ついてねえよ。宮本はとっとと帰省しちまうし。あの薄情モン…」 「あーあ、らぶらぶダーリンの宮本にも見捨てられ、寂しいお正月ですね原宿さん」 「うるっさい死ねてめえ。ラブラブとか言うな。…特番は意地でも見る…加護ちゃん…」 最後の一言が本気で泣きそうだったので、竹田は思わず苦笑を洩らす。 ベッド脇のサイドテーブルにビニール袋をかさりと置いた。毛布に包まるように して横たわった原宿の、閉じた薄い瞼が端から覗いていた。 「…何か食った?薬買ってきたんだけど」 「食ってない。食欲ねえ」 「食べないと薬飲めないよ。おかゆは?」 「作ってくれんの?」 もぞ、と身体を動かして原宿が竹田を見た。 熱のせいか、その眼はとろりと潤んで蕩けていた。 「…レトルトだけど」 竹田は思わずぎくりと目を逸らした。何にぎくりとしたのか自分でも解らなかった。 動揺を悟られるのがなんとなく嫌で、踵を返して戸棚からお湯を沸かす鍋を取り出 しに行った。 「卵入れて」 その背中を追うように原宿が言う。 「贅沢いうな」 申し訳程度に設置された自炊設備の簡易コンロに鍋をかけたて火をつけた。ただ湯 に袋を放り込んで温めるだけの簡単クッキング。少し味気ないけれど仕方がない。 竹田はおかゆの作り方など知らないし、よもや男のためにこんな甲斐甲斐しいこと をする羽目になるなんて思いもしなかったのだ。 …俺何やってんだろうなあ。正月早々。 竹田は思わず息を吐いた。 外ではいつもと少しも変わらぬ朝の陽光がゆらゆら平和に揺れていた。 ヒーターをつけると空気が乾燥するからやめろ、と原宿が言うので、部屋は寒い ままだった。 仕方なく竹田はコートを羽織ったまま窓ガラスに寄りかかって、外の僅かな陽光で 寒さをしのいでいた。 視界の端に寝ている原宿が引っ掛かっている。 朝早くに起こされたので眠たかった。 背中から差す日の光はぽかぽかと暖かく、心地よさに竹田は思わず目を閉じた。 口を開いたのは原宿だった。 「…竹田」 「…んあ?…やべ、寝るとこだった」 「寝るな。おかゆまだ」 「お湯が沸かないと。これやっぱり火力弱いな」 「ふーん」 それだけ言ってまた黙った。 点けっ放しの小さなテレビでは、正月特番がもう何十回目かの明けましておめで とうございます、を言っていた。 「…竹田ー」 また原宿が口を開いた。ごそごそと衣擦れの音がして、多分こっちに向き直ったの だな、と思った。 「何だよ」 「竹田さ。なにかしゃべれよ。何この沈黙」 「眠いんだよ俺だって。なにかって、何」 「俺に対する愛の言葉とか」 「………へ」 あんまり無防備に愛、とか言うので竹田は思わず間の抜けた声をあげて原宿を見た。 原宿はベッドに横たわったまま、例の蕩けた目をして竹田を見ていた。 目を見たとたんか、と耳が熱くなった。何言ってんだよ、と言おうとして口を笑み の形に開いて、けれど声にならなかった。喉が鳴らすに終わった。 ぶ、と原宿が吹きだした。そのままげらげら声立てて笑い出した。 「…びびってる!びびってるし!ばっかじゃねーの竹田!うわウケる、今の顔っ!」 「な…だっ……このくそ原宿っ!」 「ひゃはは、怒んなって。顔赤いですよお兄さんー」 言われて赤面しているのに気が付いた。ますます頬に血が上る。悔しくてベッドを 軽く蹴飛ばした。 衝撃でベッドが小さく揺れた。原宿は胸を折り曲げてまだくつくつ笑っている。 …熱でテンション上がってやがる。ガキかこいつ。 「むっかつく…俺わざわざ看病にきてんのに何それ」 「何だよ、そんなマジで怒るなって。ほら、お湯沸騰してんじゃねえの」 笑いながら原宿が鍋を指差した。いつの間にやらことこと、と音を立てて水蒸気が 昇っている。 へいへい王様。と息混じりに返事しながら竹田は腰を浮かせてサイドテーブルの コンビニ袋に手を伸ばした。 その手をふいに原宿の手ががし、とつかんだ。 何より先に手が熱いな、と思って、それから原宿の行動を疑問に思う間もなくぐい と引き寄せられた。 「ぅわ、」 中途半端な体勢だったのでバランスを崩して、ベッドの横にどさ、と無様に座り込む 形になった。 拍子に肩をしたたかぶつけた。思わず小さく呻いた。 「いって…おい。何だよ痛えよ。さっきのネタならもういいって。はな」 せ、といおうとして小さく息を飲んだ。あの目が至近で竹田を見ていた。 「…離せ」 その目に一瞬射すくめられて、それでもなんとか声を絞り出した。 声が震えていなければいい。頭の奥で竹田はこっそり願った。 原宿はかまわず竹田の手を額に乗せた。 「竹田は手ェ冷てえな。気持ちいい」 息だけで言って、くう、とその目を三日月に細めた。 ただそれしきで竹田の心臓はざわりと粟立つ。耳が熱くなった。 …ああ、やばい。 額に乗せられた手をつう、と頬に滑らせると、原宿が小さく身じろいで曖昧に笑った。 後ろで鍋が小さく音を立てている。警鐘のようだと思った。無視した。 ゆっくり、ゆっくり顔を近づけて原宿に口付けた。口付けながら体勢を立て直す。 原宿は一瞬顔を強張らせ、逃げるように顔を背けた。 竹田はなおも追いかけて、ゆるりと舌を挿し込んだ。懐柔するみたいにその歯列を なぞった。 頭の中はしんと静まり返った。 鼻が詰まっている原宿が口付けの隙間から苦しそうにつく息が、唇の端や頬に当たった。 その息が嘘みたいに熱くて、熱が高いのかもしれない、と妙に冷静に考える。 終始無言だった。 ただ湯が沸騰することこという音だけが響いていた。 - ごわごわしたコートごしに原宿が竹田の体を弱く押し返し、そのまま身体を剥がした。 ゆっくり顔を離して、原宿の困ったような顔をまともに見た瞬間竹田は急に我に帰った。 宮本の顔とか普段の馬鹿話とか、そういったことごとが一気に脳裏に浮かんで消えた。 悪い、と謝ろうとして、けれど声にならず喉を鳴らすに終わった。 原宿は小さく息を切らしていた。そうして浅く眉根を寄せて竹田を見た。 何の意思もこもらぬような目だ。 竹田は慌てて逃げるように立ち上がった。 「…おかゆ」 言い訳に呟いてレトルトおかゆの箱を引っつかんだ。 今更心臓がやかましく鳴り出して途方にくれる。 くると身体の向きを変えて顔を見られないようにした。原宿の視線を背中で意識した。 原宿はどんな表情をしているか、想像がつかなかった。知りたくもない。 どうしよう。どうしようもない。 竹田は必死に口角を均等に吊り上げた。そうして原宿を振り向いた。 「…なんつって。びびった?」 努めて明るく、笑いを含んだ声で言った。作った笑顔が不自然にならないか、それ だけ危惧した。 原宿が呆けたような顔をした。 「…は?」 「『びびってる!びびってるし!うわウケる、今の顔っ!』」 さっきの原宿の口真似をしながら言ってやった。 原宿の表情がみるみる怒りに変わる。 「…な、てめえ!畜生、むかつく!」 「むかつけむかつけ。ざまーみろ、俺の勝ち」 ヒヒヒ、と意地悪く笑いながら内心竹田は安堵した。 いつもどおり、問題ない、大丈夫。 おかゆのパックをもうだいぶ湯が少なくなってしまった鍋にほおりこんだ。 このまま五分温めればおかゆが出来上がる。 オッケ。と小さくつぶやいて、いまだ不機嫌に天井を睨んでいる原宿を振り返った。 「ちょっと俺部屋戻ってくるわ」 「おう」 怒るな怒るな。と小さく笑って軽く手を振って外に出る。 扉をぱたんと静かに閉めた。閉め終わるのと作り笑顔がほどけるのは同時だった。 「…ああ、」 深くから息を吐いた。そのまま扉に寄りかかるようにずるずるへたり込んだ。ずず、 と戸板に髪の毛が逆立った。 大丈夫、気の迷いだ。きっと正月に浮かれているせいだ。 小さく言い聞かせた。握った拳に額を当ててゆるゆると振った。 風邪が伝染ったみたいに熱かった。 五分したらおかゆが出来上がってしまう。それまで息を整えて戻らなくちゃならない。 唇の熱さがいつまでも残った。 頭蓋の裏のあたり、原宿のあのとろりとした目が張り付いてはなれなかった。
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