公衆電話
不覚だった。 今日テレビで、夕方から大雨が降る、とやっていたのに、僕は手ぶらで家を出て きてしまったのだ。 あぁ、何で僕は、傘…いや、財布でも携帯電話でもいい。何か持って、散歩に 出かけなかったんだろう。自分を呪いたい。 駅に入ってくる人たちは、傘を持っているにも関わらず、足元がぐっしょりと 濡れていた。 駅から寮まで、どんなに急いで歩いても30分はかかる。 その30分は、雨が服の中に踏み込んできて、風邪をひかせるには十分すぎる 時間だろう。濡れて困るものは持っていないが、明後日から中間テストがはじ まることを考えると、風邪をひくのは避けておきたい。 ポケットをさぐると、40円しかなかった。なんて貧民だ。 タクシーはおろか、これじゃぁバスに乗るのも不可能だ。傘も買えない。 ―――選択肢は、一つしかなかった。 僕は、もう覚えてしまった電話番号に電話をした。 「もしもし、関さん?」 「…あぁ、誰かと思ったら、竹田か」 なけなしの10円を投入した公衆電話の向こう側から、関さんが、 「だるい」という気持ちいっぱいの返答を返してきた。 これはまた、寝ていたに違いない。 僕はため息をおさえながら、自分の今置かれている状況を説明する。 「…というわけなんだけれど、迎えに来てくれないかな」 「なに、俺、パシリにつかわれるの?」 「マクドナルドなら豪遊できるぐらいのお礼はするよ」 僕は、すぐそこで渡された、マクドナルドの割引券を握りしめながら、 そう言った。 「マックはなぁ。なに、お前、どこから電話してるの?」 「え? 駅だよ。駅の公衆電話」 「R駅の公衆電話…。あぁ、ボックスになってないやつか」 「あ、そうそう。なんか、7台ぐらい並んでる」 「ふーん…」 ふと見ると、通話残り時間が少ししかなくなっていた。 僕は、二つ目の10円を投入した。少しだけ、残り時間が延びる。 …携帯電話にかけているから、通話料金がバカ高いんだ。 これは、40円全て使い切るのは時間の問題だ。 僕は、あわてて早口でこう言った。 「マックだけで不満なら、ドトールでどうかな」 関さんが、受話器の向こうで笑みを浮かべた気配がした。 なんだ。自分が優位に立っているからって、この態度は。 「そこで、『関さん愛してる』って叫んだら、持っていってやるよ」 「はぁ?」 電話なのに、沈黙が流れた。 また通話時間が少なくなってきたので、あわてて10円を投入する。 「…何がしたいのさ、関さん」 「羞恥プレイ」 関さんが、受話器の向こうでくつくつと笑う気配がする。人が悪い。 こうなったら、多分僕が言うまで、電話を引き伸ばすつもりだ。 こうして迷っている間に、どんどん通話時間は減っていた。 僕は唇をしめらせると、しぶしぶと口をすべらした。 「…関さん、愛してる」 「え、なに? 後ろの音が大きくて聞こえない。何か言った?」 なんて性格の悪さだ。 「せ…」 「ん?」 「関さん………てる」 「雨は今晩中降るらしいよ。どうする?」 「…。…。してる」 「え? テルがなにだって?」 僕は、4つ目のコインを投入して、覚悟を決めた。 「関さん、愛してるっ!」 若い女性二人組みが、僕の方を見てくすくす笑うのが見えた。 視線のはしっこに、マユをひそめた年配の女性が見える。 きょとんとした目で僕を見る、浮浪者とも目があった。 僕の隣の公衆電話で会話していた、外国人が喋るのをやめて、僕を見た。 僕は、頬が熱くなるのを感じつつ、その空気をふりはらうように、 早口で言った。 「き、聞こえただろ! 早く持ってきてよ。もうコイン無いんだから」 「あははははは、傑作! 分かった行ってやるよ。駅の、南改札口で待ってて」 関さんは、笑いながらそう言って電話を切ってしまった。 ピーピーと音がして、公衆電話が終わりをつげる。 取り残された僕は、赤くなった顔をかかえたまま、途方にくれるしかなかった。 その場から逃げようにも、足に力がはいらずに、踏み出せない。 いや、その前に、受話器から手を離せない。 関さんが、どんなに急いでも、寮から30分。 いや、もしかしたら宮本とかに自転車を借りて、15分でくるかもしれない。 どうしよう。それまでに、どうやっていつもの自分に戻ればいいんだろうか。 困った。困った。 何てことだろう。 さっきのたわいない関さんのいじわるのせいで。 僕はどうしようもなく、ツーツーと音がする受話器を耳にあてて、ほてる顔が 早く元にもどるのを願っていた。 関さんの、馬鹿。 関さんの、馬鹿。 関さんの、馬鹿。 すっかりぬるくなった受話器は、僕の顔の熱を吸い取ってはくれなかった。
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