推定無垢。
「雨降ってきてんじゃねーか、クソ」 掃除当番から解放されたらしい原宿が、鈍色の空を眺めながら廊下を歩いて くる。いつものように一階の廊下の窓から外を眺めていた竹田は、声の方向に 小さく手を振った。 「宮本は?」 原宿は竹田から一歩分のところで足を止め、窓に手をついた。 「なんだか知らないけど、さっき帰った」 ふーん、と、つぶやきながら、原宿は糸のような雨の落ちてくる上空を見上げ た。わずかに開いた口が彼に幼い印象を与えていて、その横顔を見ながら竹田 は口元をゆるめる。 「竹田さん、どうやって帰るんだ? 傘、とか、あるわけねーよな」 「持ってない。適当に帰るよ」 「じゃあ俺も適当に帰ろー」 竹田の言葉の尻馬について笑う原宿に、竹田はひとつ提案する。 「――宮本にでも『傘持って来い』って電話すれば?」 ……明確な意図があって吐いた言葉ではなかった。冗談と取られても、本気だ と思われても、どちらでもいい。そんな感じの言葉。 「……」 原宿は、言葉が竹田の本意なのだと取ったのだろう、険しい表情で竹田を睨んだ。 「どうしてそんなに意地悪なこと言うんだよ。最近、ずっとそうだよな」 「ハラくん」 子どもが癇癪を起こしたみたいに、原宿が壁を蹴り飛ばした。 「俺が竹田さんのこと好きだって知ってるから? 迷惑ならもっとちゃんと  言えよ! 遠回しすぎるんだよ。すげー、ムカツク!!」 ――直球である。 あまりの直球さに、竹田は反射的に笑いそうになった。 ――本当に、 少しだけ気恥ずかしいけれど、彼を見ていると「無垢」という言葉を思い出す。 かけひきをしない、彼の子どもっぽさは好ましい。いや、……うらやましい。 「なんとか言えよ。それとも違うのか?」 「……」 「ずっと、竹田さんは俺のことが迷惑だから、冷たいことを言うんだと思って  たけど。最近違う気がしてきて…」 竹田は、その言葉になにを言おうかと逡巡した。 不意に、原宿は竹田の肩越しに視線を投げ、それから驚いたような顔をした。 「おーい、お前ら傘ないだろ。友達思いの宮本くんが傘を持って戻ってきて  みました」 遠くから叫んでいるのは宮本のようだ。振り返れば、帰っている途中で雨に 降られたのだろう彼が、濡れた髪で真新しい傘を振り回して歩いてきていた。 宮本の姿をしばらくぼんやり見ていた原宿は、次の瞬間、竹田を睨みつけた後、 きびすを返した。宮本が声をかけるが、原宿は反応せずに歩き去っていく。 ――やっぱり、気づかれているんだな。 原宿の露骨な態度に、竹田は苦笑した。 「どうしたんだ? あれ」 「……いや、なんでもないよ」 内心のかすかな動揺を悟られまいと、竹田は微笑んでみせたが、宮本は真剣な 顔で竹田を探るようにつぶやいた。 「コクられた?」 どうやら、聡いこの男に隠し立ては出来ないらしい。観念して、言葉に少し だけ肯定的な響きをのせた。 「――君も直球だな」 「やっと、だな。傘やるから、早く追いかけろよ」 どこか観念したようにつぶやく宮本に、竹田は少しだけイライラした。 「なんで」 「なんでって、好きなんだろ?」 ため息が漏れる。 引きずられるな。頭の片隅ではそんな警告が聞こえてくるが、言葉は勝手に 口をついていた。 「……確かに、誤解させるように仕向けたのは僕だけど。君は、僕とハラくん  を二人っきりにするために先に帰ったりしなくてもいいんだよ。そんな必要  はない」 「誤解?」 「前に僕が、言った言葉をおぼえているか? 『僕は、僕に期待しないように  しているハラくんを見るのが、好きだ』……言ってしまえばイジメだろ?   これ」 直球な二人に引きずられている自覚はあったが、もはや、言葉を止める気には ならない。 理性で言葉を制御しない行為も、なかなか面白いかもしれない。不意にそんな ことを思い、笑みが自然と竹田の口元にのぼった。 「まぁ、二人の気持ちを面白がっていた部分も大きいけど。要するに、嫉妬  してたんだ、僕は。君に好かれてるハラくんにね。意味、わかるだろ?」 「――は?」 宮本の呆けた顔は結構珍しい。見ものだ。 妙に楽しくなった竹田は、目の前の男の肩に手をかけ、その口角に口づけた。 小さく、メガネが音を立てる。 宮本の目を覗き込んで思いっきり微笑みかけてやる。誰かの裏をかいて意地悪 するのは本当に楽しい。人のことは言えない。意地悪がこんなに楽しいなんて、 無垢ではないにしろ自分も相当子どもっぽい。 竹田は宮本が持っていた傘を奪い取ってから、一歩離れた。 「応えてくれとかは思ってないよ。僕も、ハラくんを好きな報われない君を見る  のが好きなだけで、君自信に魅力を感じてるわけじゃないかもしれないし」 「……」 「傘、もらってく。ありがとう」 「――俺の傘」 「自分で持っていけって言ったんだろ。じゃあ」 竹田は宮本を振り返らずに、歩き出した。 宮本は追ってこない。さすがに彼も、今、竹田を追ってきて一緒に帰るほどの 度胸はないらしい。 いつの間にか雨脚は激しくなっている。 「無邪気……というか、邪悪だな、あれは」 方程式が見え、答えが見えてしまう関係は退屈だ。けれど、こんな関係は予想 だにしなかった。 雨の中をどうやって帰るかという方法論以上の難題が、宮本にはのしかかって いた。
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