スロウ
高等部に入学して、一年目の担任が、兄貴先生だった。はじめのHRで学級 委員になった俺は、それから一年間、ずっと兄貴先生の部屋に通い詰めた。 先生が担当している生徒会にも、自分から参加して、会長にまでなった。 考えてみれば、この学校で一番、兄貴先生の部屋に出入りしているのは、自分 かもしれない。 俺は、そう考えながら、兄貴先生の部屋のドアをノックした。 比較的新しめの体育教官棟の、3階角部屋が、兄貴先生個人の部屋だ。 久しぶりにその部屋に入ったら、すごく片付いていた。…いや、ただ単に、 今まであった物がなくなっているだけか。ソファとイスと、机以外、何もない ガランとした部屋で、俺は先生にすすめられるまま、イスに座り、先生がいれ てくれたコーヒーを飲み干した。 「明日の離任式では、お前が挨拶してくれるんだろ?」 耳に歯をたてながら、低い声で囁かれる。 「…生徒会長ですから」 俺は、先生の肩を押し返しながら、答える。 「泣くか?」 「泣きませんよ。別に、先生が学園出て行ったからって、会えなくなるわけでも  ないでしょう?」 ふっと笑ってそう言うと、兄貴先生は、それもそうか、とつぶやいた。 そして、俺の手から空になったマグカップをとりあげる。 俺は、マグカップを片付けに向かう兄貴先生の背中を見つめた。 じっと見ていると、兄貴先生がけげんそうな顔でふりむく。 「…何、人をじっと見てるんだ。気持ち悪い」 「別に」 こうした関係になったのは、いつからだったっけ、と思いながら、俺は制服の ネクタイをゆっくりとほどいた。兄貴先生が、戻ってきて、俺をやわらかく 抱きしめた。 先生が、今年度でこの学園を去るというのは、もうかなり前から先生自身の 口から発表されていた。生徒や保護者からは、絶大な人気を得ていた先生だ から、色々な人がひきとめたらしいが、先生の決意は変わらなかった。俺は、 先生が体調を崩していて、体育教師ができなくなったからだ、と知っていた ので、あえてひきとめることも、別れを惜しむこともしなかった。先日も、 三等兵達が兄貴先生を見送る盛大なパーティーをしたらしいが、何となく、 今更な気がして、俺は出席しなかった。 先生だって、いつかは学園を去る。俺の卒業より…早かっただけだ。 耳朶をもて遊ぶように、舌をはわされると、ふとももの付け根あたりが、むず むずしてくる。俺は、自分の息が熱くなるのを感じながら、先生の肩にしがみ ついた。 「…今日は何やら積極的だな、ワタナベ。『先生』って呼びながらエッチする  のは最後だから、サービスか?」 兄貴先生が、意地悪くささやく。 俺はそれに答えず、兄貴先生の肩につめをたてた。 ふと先生の肩の向こうに目をやると、薄いピンク色のモヤが見えた。 「桜…」 モヤがかかったようになっている頭では、それが、窓の向こうにある桜だ、と 分かるのには、ちょっと時間がかかった。 「ん? …あぁ、今年は咲くの早いみたいだな」 先生が、俺の視線を追って、窓の外を見る。 「窓の向こうの木、桜だったんですね。知らなかった」 俺がつぶやくと、先生は俺の汗ではりついた前髪をかきあげながら、にやりと 笑った。 「去年も一昨年も、俺のことばっかり見てたから、桜なんて見てもなかったん  だろう」 「そんな」 俺の答えを聞かずに、先生は俺の口をふさいだ。 ―――いつのまにか、気を失っていたらしい。 目を覚ますと、すっかり日が暮れていた。 イスから、ソファへ移動して、毛布までかけられている。 時計を見ると、かなりいい時間になっていた。今から急いで帰って、寮の門限 にギリギリぐらいだ。 上半身だけ体を起こすと、隣で寝ていた兄貴先生の腕が、俺をひきとめた。 「…先生…」 俺のつぶやきに、横で寝ていた兄貴先生が顔をあげる。 「まだゆっくりしていけよ」 「でも、寮の門限が…」 「今日ぐらい、違反しろ。先生が許す」 先生も少し寝ていたらしく、寝ぼけた目でそう言って、俺の肩をつかんで、また ソファに押し倒す。太い腕が、俺の体を抱えるように抱きしめた。 うなじにひげがこすれる感触が、ぞくりと背中をあわだたせる。 「明日、先生の離任式なのに…」 「……あぁ」 先生は、それ以上何も言わず、俺の体を自分の方に向けさせると、抱きしめて また寝息をたてだした。 …しばらく、そっとぬけだして帰ろうかどうしようか迷ったが、この太い腕から 脱け出せそうにないので、俺は兄貴先生の胸に顔をうずめると、また眠ること にした。この部屋で、こうして一緒にいられるのも、今日が最後なんだし。 そして、俺は夢を見た。明日の離任式の夢だった。 兄貴先生が壇上で、簡単な挨拶をして。校長が挨拶をして。 壇上を見あげて泣いている生徒がいて。声援を送る生徒がいて。 改めて、本当に人気のある先生だったんだな、と俺は考えていた。 そして、先生達の挨拶が済むと、俺の番が来た。 「それでは、生徒会長のワタナベより、挨拶を」と、司会役の先生に呼ばれて、 俺は、壇上にのぼり、兄貴先生に一礼をして、用意した原稿を取り出す。 「校庭の桜も、先生を見送るように咲いています。兄貴先生をはじめ、今回  私達の学園を離れる先生方。今まで、ありがとうございました。先生方に  は、たくさんのことを教えていただき、言葉には言い尽くせないぐらい…」 ―――そこで、ふいに、視界がにじんで、言葉に詰まった。 目を覚ますと、まだ兄貴先生は隣にいた。 兄貴先生の頬に唇をよせると、兄貴先生は半分眠ったまま、俺の体をがっし りと抱きしめた。 今年から、俺は、この学園の桜が咲くのを見落とすことはないんだろう。 明日壇上で泣かないよう、俺は、今のうちにソファに涙を吸わせておいた。
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